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2009年12月

2009年12月19日 (土)

神田川崖線の庭園-1 関口芭蕉庵 

東京都国分寺市から世田谷区にかけて続く武蔵野丘陵南端の崖、国分寺崖線沿いには数多くの湧水があり、傾斜面と水を生かした庭がたくさんあることで有名です。一方崖線の長さでは劣り、また近年の開発にあってかなり数を減らしたとはいえ、神田川の北岸に続く豊島台の段丘崖沿いにも、たくさんの名園が残されています。その一つ、関口芭蕉庵を取り上げます。

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関口芭蕉庵は芭蕉が郷里の伊賀上野から2度目の上京をした際に住んでいたと言われている場所で、当時はすぐ下を流れる神田川で神田上水の改修が行われていました。芭蕉庵の西向かいには工事の安全と治水を祈って創建された「水神社」があり、イチョウの黄葉がまだ落ちずに陽を浴びていました。

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入るのは胸突坂のいちばん下にある西側の戸から。入って池のある上段へ登っていく道には芭蕉の木が植えられていて、南方の木の明るさが「わび・さび」のイメージとは異なる世界を垣間見せてくれます。

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瓢箪池。崖線からの湧水をたたえた池です。

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池には草や木が覆いかぶさるように生え、幽邃さを演出しています。

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池畔のカエデもまだ散り残っていました。

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庵の裏手にある石鉢にも湧水がぽつぽつと注いでいます。

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崖の中腹にある芭蕉堂。中には芭蕉の木像が納められています。

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堂の傍らの木には山鳩がとまって羽づくろいをしています。

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池畔から振り返ると庵の向こうに水神社のイチョウが高々とそびえていました。

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芭蕉の時代はおろか、昭和の初めまで神田川の対岸には早稲田の田んぼが広がっていて、高台から眺めるその景色は実にのどかだったといいます。現在では建物や木々に阻まれて、高台に登っても早稲田側の景色を見渡せる場所がほとんどありません。この景色は近くにある金乗院、目白不動の墓地の最上段から眺めたものですが、立ち並ぶ墓石のむこうに流れる神田川を思い浮かべながら、かろうじて昔日の面影を幻視することができます。というか、現場に立った時にはできたような気がしました。

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2009年12月15日 (火)

日本各地の庭石の標本園 - 清澄庭園

江東区の清澄にある清澄庭園は、明治20年代に三菱財閥の創始者、岩崎家が三代かけて完成させた「清澄園(深川親睦園)」の東半分が、関東大震災後に東京市に寄贈されたもの。震災で壊滅的な打撃を受けた西半分は資材置き場などとして利用されていましたが、昭和50年代に公園として整備され、現在では「清澄公園」となっています。

清澄庭園の見ものは、かつては汐入りだった広大な池泉。入口側には大正記念館、対岸には涼亭という日本建築が立ち、西南側の端には富士山と呼ばれる築山が築かれています。また岩崎家三代が得意の船運を通じて全国から買い集めた沈石奇石が至るところに置かれ、さながら庭石の標本園の観を呈しています。

庭園のある場所は江戸開府の頃はまだ海だったところで、その後埋め立てられて漁師町となりましたが、北を小名木川、南を仙台堀という内陸船運の主要交通路に挟まれており、多少なりとも海辺の気配が残っています。

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中の島から眺める池。12月初旬とあって、松の木には雪吊りが施されています。

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庭園西端から眺める涼亭。

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富士山と枯滝石組。富士山にはもともと木を植えない予定だったようですが、長い年月のうちに実生で生えてきてしまったそうです。

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池に遊ぶ鴨。

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大沢渡り。このように水上を歩くように石の敷かれた場所が3か所あり、水や水鳥と親しむことができます。

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入口すぐ横に立てられた伊豆磯石。まるで太湖石のようですが、旧日本館の中庭にしつらえられたものです。

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大沢渡りの続きに立てられた青石。実は池の上に張り出すように建てられていた旧日本館の束石(柱の基礎になる石)です。

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摂津御影の棗型手水鉢。これも旧日本館の縁先に置かれていたものです。

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仙台石の石橋。巨大な一枚岩が二枚渡してあります。

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佐渡赤玉石。採り尽くされてしまって現在では入手不可能です。

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かつての深川親睦園の西側部分にあたる現在の清澄公園。紅葉が見事です。

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近くの常盤一丁目にある深川芭蕉庵あと。「古池や」の句が生まれた場所です。

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深川芭蕉庵のはす向かいにある正木稲荷。おできの神様として崇敬を集めています。

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2009年12月13日 (日)

東海第一の名園 -修禅寺庭園

伊豆の国、水の景の最後を締めくくったのが、修禅寺の庭園、「東海第一園」です。秋の特別公開で入園することができました。ここの見ものは何と言っても敷地の高低差を最大限利用してつくられた滝でしょう。見頃の紅葉とあわせて、深山幽谷の趣をかもし出していました。

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書院前の刈り込まれた植栽と池、石橋。

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池畔から見上げる滝。池中の石の上には石のカエルが。

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池の水面には紅や黄色の葉が浮かび、滝の音が静かに響いてきます。伊豆は名石の産地でもあるので、石組はおそらく豊富な地元産の石材を使ったものでしょう。

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池の右手を抱き込むように登っていくと、回遊路はやがて滝を渡ります。

この庭園の成立については、入園時にいただいた説明書を引用します。

庭園が現在のかたちに整えられたのは、皇族で明治維新、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争で武勲を上げ、また日本赤十字社などの総裁として社会福祉にも力を尽くされた小松宮彰仁親王の別邸(静岡県三島市内在、現在は下賜され楽寿園という公園となっている)を明治38年に拝領、移築して修禅寺方丈および書院としたのを機に、達磨山山麓からの水を引き、大小の岩を積み滝や池を造り背後の山を借景とした、小規模ながら奥行きと高低の変化に富んだ回遊式庭園を造営したことが始まりです。
下賜された建物は老朽化のため、昭和の終わりに建て替えられましたが、庭園は当時のままの姿で残っています。
明治40年には大正天皇が東宮(皇太子)にあった時、修善寺においでになり、この庭園をご覧になり「東海第一の庭園である」と仰せられたことから、以来「東海第一園」とよばれるようになりました。

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2009年12月12日 (土)

伊豆の国、水の景

11月28日(土)~29日(日)に静岡の三島から伊豆箱根鉄道に乗って修善寺まで行ってきました。三島は市内のあちこちから清冽な湧水が湧き出し、幾筋もの川となって流れています。伊豆箱根鉄道に乗って中伊豆に向けて出発すると、右手の沼津の方向に向かって流れ下るそれらの川と交差したり、流れに沿って走ったりすることになります。ところがしばらくすると、行く手にそびえる天城山から下ってきた狩野川が右手にあらわれ、線路はそれを遡る形で修善寺まで続いています。今回の旅では伊豆の国が見せる様々な水の景色を楽しむことができました。なお、今回も鉄道紀行が別にありますので、伊豆箱根鉄道についてはそちらをご覧ください(伊豆箱根鉄道を撮影 前編後編)。

三島

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三島駅の新幹線ホームから眺めた富士山。朝の澄んだ空気のおかげで手の届きそうなほど近くに迫って見えます。

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三島市内南部にある柿田川湧水。第2展望台から眺めた水源。ボコボコと盛り上がるように底の砂を躍らせながら清水が湧き、青い水の中には魚影も見えます。

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柿田川の川面に遊ぶサギ。むこう岸には小舟がもやってあります。

狩野川(かのがわ)

天城山から北流してくる一級河川。古くから暴れ川として有名で、最近では昭和33(1958)年の狩野川台風による水害で田方郡全体で800人余の死者を出しています。治水対策として放水路を開削しようという案は江戸時代からあったそうですが、実際に伊豆長岡の江間から駿河湾までの区間が着工に至ったのは狩野川台風来襲前の昭和26(1951)年、完成は昭和40(1965)年のことでした。

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朝の狩野川。右手の山にはかつて瓜生野金山(大仁金山)があり、大久保石見守長安により、慶長2(1597)年から数十年間にわたって採掘が続けられました。大仁温泉はこの廃坑から昭和の初めに突如湧出したもので、対岸の温泉街に引かれています。

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2007年に完成した新大仁橋から上流側を望む。画面下部中央に見える四角い物体は、流失した昔の橋の橋桁のようです。

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すぐ隣には大正4年にかけられた旧大仁橋の基部が残されています。狩野川台風の水害で左岸部分が流失、川幅が広がったためにもう一つ橋を架け、新橋完成後の2008年に撤去されました。伊豆箱根鉄道の前身である豆相鉄道は大仁が終点だった時代が長く、修善寺へ行く人はかつては皆この橋を渡り、歩いて山を越えたそうです。

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大仁神社。平安時代初期に近江の日吉大社を勧進して創建されたと言われています。

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狩野川はアユの釣漁法である友釣りの発祥の地とされていて、手水舎の水口が鮎の形をしています。

桂川(修善寺)

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狩野川をさらに遡ると、左岸から合流してくる支流が桂川です。修善寺温泉街は紅葉が見頃でした。

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渓流に覆いかぶさるように枝を伸ばす楓が見事です。

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2009年12月10日 (木)

矢切の渡しをわたって国府台へ

葛飾で庭園を見たあと、矢切の渡しで江戸川を渡って氾濫原を横切り、かつて下総国府や国分寺があった国府台まで歩きました。伊藤左千夫の小説『野菊の墓』の舞台となった場所で、道は「野菊のこみち」と呼ばれて親しまれています。

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まずは帝釈堂のすばらしい彫刻の中にいたフクロウから。左の1羽には羽角があり、羽を広げています。右の1羽は体を丸めてこちらを見下ろしています。

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矢切の渡し。柴又側の船着き場から江戸川の下流方向に北総鉄道の鉄橋を眺めたところ。水面は本当に「鏡のよう」。風もなく、本当に川なのか疑いたくなるほど波がありません。

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矢切側から観光客を満載した船が渡ってきました。小さく見えますが、これでも定員31人。並んでいた人は一人残らず乗船することができました。

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矢切側の着船場が見えてきました。なつかしい雰囲気です。

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川のむこうは一面「矢切ネギ」の畑。畝が高く盛られていて、白い部分はすべて土中に隠れています。彼方に見える木立は国府台の台地です。

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台地の上には矢切神社が鎮座しています。ネギ農家はほとんどこの台地の上にあり、下の氾濫原に耕作をしに行っているようです。戦国時代には国府台戦争と呼ばれる大規模な戦があった場所で、かつては下総の国の政治の中心地として栄えていました。

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2009年12月 9日 (水)

葛飾の名園

寅さんで有名な葛飾の柴又帝釈天、題経寺に、「邃渓園(すいけいえん)」という庭園があります。昭和40(1965)年に完成した新しい庭園で、向島の庭師、永井楽山が戦前から練っていた構想を実現したものです。大客殿とその両端から発する回廊に囲まれており、回廊を歩くことで庭の持つ様々な表情を楽しむことができます。

また、すぐ近くには地元の資産家、山本栄之助氏の旧宅で現在は区の運営するカフェ兼貸室になっている「山本亭」があり、ここにも小さいながらすばらしい庭があります。

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邃渓園 - 門を入ったところにある立石と碑、その周辺の植え込み。

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邃渓園 - 客殿から眺めた庭の全景。前景の芝と池のあいだに直線的な刈り込みが配されています。画面左に見える松の左奥に滝があり、水音が庭全体を包んでいます。

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邃渓園 - 向かって右側の回廊から見た池の中の植え込み。

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邃渓園 - 東側から眺めた池の風景。背後に見えるのは帝釈堂。

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邃渓園 - 回廊奥から眺めた大客殿。スケールは違いますが、奈良の浄瑠璃寺庭園を思い出します。

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邃渓園 - 築山の奥から流れ落ちる御神水。

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山本亭庭園(風の間より)。

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山本亭庭園(花の間より)。

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2009年12月 1日 (火)

檜原村紀聞 その風土と人間

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瓜生 卓造 著

平凡社

山並みのむこうにまた山の連なる奥多摩の村々。こうした山深い場所では、かつて道は山々の尾根をつないで走っていた。人々は隣国から山伝いにやってきて、里は標高の高いところから低い方に向かって開けた。何年か前、浅間尾根を歩いて、それを実感したことがある。尾根から谷を見下ろしながら暮している者は、平地から上がってきた者とはおそらく出自を異にする。そしてその異なる世界に住んでいた者たちの視線が交錯し、混じり合い、共存しているのが現在の檜原村なのだ。

「島嶼部を除き、東京にただ一つ残された村」の自然と歴史と現在の暮しが溶け合って奏でる物語は物悲しくも美しく、文章の一つ一つが詩篇のような輝きを見せる。

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