« 昭和の記憶の残る町 | トップページ | 秩父往還に残る宿場町 »

2009年11月 9日 (月)

武蔵野の開拓時代をなつかしむ

東京の中心部から放射状に延びる鉄道路線の沿線からから少し離れて歩くと、今でも武蔵野の面影を随所に見ることができます。

武蔵野の農地開拓というのは、昭和以降の住宅開発のような江戸の市域の拡大という形で行われたのではなく、甲州街道から北へ向かって南北方向に行われたようです。そのため、明治時代頃までは交通も東西より南北軸を優先してインフラが整えられてきました。

江戸時代初めに引かれた玉川上水は、遠く奥多摩の山中に源を発する多摩川の水を江戸の上水として使用しようという意図のもとに造られたものですが、飲用水の確保という需要だけでなく、流域の開拓にも大きく貢献しました。灌漑用水としての利用が設計段階から想定されていたことは、いずれも周辺の土地の中で最も高い部分を選んで流路の選定がなされていることからもわかります。これは周辺に分水することを初めから想定していたためだと言われています(宮本常一『私の日本地図10、武蔵野・青梅』未来社)。上水の完成後、多数の分水が行われましたが、これら分水の流路が南北方向中心であったのは当然のことで、そのため開拓も主に広い平野の広がっていた北方向に向かって進みました。いつくかの分水の中でも野火止用水は西武拝島線東大和市駅近くから埼玉県の新座、朝霞方面に向かって引かれ、流域では広大な新田が開発されました。

明治になってこの広い武蔵野を鉄道で結ぼうという計画が持ち上がった時、その基本線が南北軸に沿って据えられたのはこうした理由によるものです。現在の西武鉄道の中で最も長い歴史を誇る国分寺線は、明治27年から28年にかけて開通した川越鉄道が前身で、もともと国分寺と川越を結ぶ路線でした。その沿線風景をいくつか写真で紹介します。

Photo

玉川上水(西武国分寺線鷹の台駅から上流を望む)。

Photo_2

上水の上を国分寺線の電車が通過する。

Photo_3

鷹の台から下流方面を望む。上水の掘削面は垂直に近く、しかもかなり深く掘り下げられています。

Photo_5

一気に北上して入曽駅近辺の雑木林。

2

今も信仰は生きています。

Photo_6

萌芽更新(コピシング)を施された木々が並んでいます。これほど手入れの行きとどいた雑木林は、今ではなかなか見られるものではありません。

Photo_7

狭山市北中地区を貫通する畑の中の道。刈り込まれた茶の木の垣が延々と続き、彼方には回廊のように残された雑木林が続いています。

|

« 昭和の記憶の残る町 | トップページ | 秩父往還に残る宿場町 »

」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/500192/46717921

この記事へのトラックバック一覧です: 武蔵野の開拓時代をなつかしむ:

« 昭和の記憶の残る町 | トップページ | 秩父往還に残る宿場町 »