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2009年11月

2009年11月21日 (土)

ネズミの害にフクロウで対抗

国連が食料を食い荒すネズミを減らすために、フクロウを使うことを計画しているという話題です。さて、その効果はいかに?

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国連がラオスの鼠害撲滅にフクロウの使用を計画

 バンコク発 ネズミの大群が押し寄せて収穫したばかりの米を食い尽くすような事態が起こると、ラオスの農民たちはメンフクロウやヘビ、その他の野生動物を捕えて空腹の足しにしていた。

だが今では、国連食糧農業機関(FAO)が食料確保のためにはむしろフクロウを保護した方がはるかに効率がいいということを農民たちに納得させるための取り組みを始めようとしている。フクロウはネズミの天敵で、1日に12匹ものネズミを捕食することがあるからだ。

ワナの効果があまり上がらず、殺鼠剤の効果も好悪まちまちだったことから、国連はネズミによる食害をなくすためにその天敵となる鳥の繁殖を促し、農民たちにそれらの鳥たちが生態系の中で果たしている役割を教えていくことを決定した。

「冗談だと笑う人もありますが、フクロウはとてもよい鳥です。いろいろな意味で役に立つ鳥なんですよ」とラオスの代表として国連の専門機関であるFAOで活動するセルジュ・ベルニオー氏は話す。

「農民の中にはメンフクロウを食べてしまう者までいます。そのメンフクロウがネズミとの戦いに協力してくれると知ったら、彼らだって変わるに違いありません。」

同氏によれば、ネズミのエサの供給源であるタケの開花は50年に1度しか起こらないが、昨年はその一斉開花後初めて起きたネズミの大発生が農村部を襲ったという。ネズミたちは11月に収穫されたばかりの米やキャッサバ、ゴマの大部分を食べ尽くし、そうでなくても飢餓の広がりつつあったこの地域には、食料がほとんどなくなってしまった。収穫物が壊滅的な打撃を受けた地域は、この国の北部7県に及ぶ。

国連世界食糧計画による救済措置で、被害のあった農村には5,500トン(5,000メトリックトン)の米が配布された。同機関の推計によれば、鼠害によってラオスに住む600万人の人々のうち13万人分の食料が不足している。

「いくつかの村では食料がすべて食い尽くされました。去年だけで収穫物が全滅したのです。そのため緊急の食糧支援が必要です」とベルニオー氏。

ラオスで世界食糧計画の施策の指揮にあたるエリザベス・フォーレ氏は、ネズミの被害は洪水と同じようなもので、抗する術を持たない農民たちを困窮の縁に追いやるという意味では一種の災害だと話す。ラオスはアジア最貧国の一つで、地方に住む5歳以下の子供の2人に1人が慢性的な栄養失調を抱え、全人口の3人に2人が日常的な食料不足に陥っているという。

「私が北部の県に行ってみると、農民たちは口々に米蔵が揺れるほどのネズミの大群がその周囲にあるものすべてを食べ尽くした、まるでネズミの海のようだったという話をしていました」と同氏。「たくさんの人々が、あらゆるものを失いました。まさに泣きっ面にハチです。」

国営の英字紙Vientiane Timesによると、ラオス厚生労働相のOnchanh Thammavong氏は木曜にネズミの大発生があったことを認め、国際的な食糧支援を歓迎すると述べた。同氏は問題解決のためにフクロウを使う計画については触れておらず、別の政府高官はインタビューの要請に応じなかった。

生物学者たちは生態系への干渉にはリスクがつきもので、特にその地域に生息していない種を新たに導入する際には注意が必要だと考えている。だがメンフクロウは捕食動物としてこの地域に以前から生息しているので、その点では国連の計画はリスクが低いと思われる。 

 

出典: http://www.hindu.com  2009年7月16日

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2009年11月20日 (金)

野菜探検記

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盛口 満 著

木魂社

トマトの食感がきらい。セロリやパセリのプラスチックのような歯ごたえもきらい。ニンジンの匂いも、キュウリの水っぽさも。野菜がきらいな人に理由を訪ねると、そのほとんどは野菜たちが本来持っている、動物に食べられないようにするための防衛手段、ケミカルディフェンスに由来することがわかる。
そんな身近にある野菜との関わりを通して、野菜と人間、植物と動物の関わりの歴史を解き明かしていく、知的探検の本。沖縄で学校の先生をつとめる著者が、生徒や研究仲間たちと問題を提起しあいながら、生まれた謎にひとつひとつ答えを見つけ出していく過程を書いていて、得られる洞察はきわめて深い。予備知識なしにいきなり読める平易さも魅力。

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2009年11月18日 (水)

下北沢のジャズ喫茶「マサコ」が閉店

下北沢に行ったので、久しぶりに「マサコ」に寄ろうと思ったら、何と9月23日で閉店したという貼り紙が出ていました。

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店の前には棚などが乱雑に置かれ、まるで廃墟のよう。ただし貼り紙には近日中に新しい店を開店したいとも書かれていたので、期待しましょう。

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「マサコ」は行きつけの店ではありませんが、京都の「しあんくれーる」、上野の「イトウ」、神保町の「響」など、通った店は次々に消えていきました。縮小しながらも続けてくれている高田馬場の「マイルストーン」、がんばれ!

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2009年11月17日 (火)

秩父往還に残る宿場町

秩父盆地のいちばん奥、秩父鉄道三峰口駅から荒川を渡った対岸に、江戸時代から三峰神社参詣の拠点として栄えた旧秩父往還の宿場町、贄川宿(にえかわじゅく)があります。ちょうど「秋の縁側展」という催しが開催されていたので、紅葉狩りを兼ねて訪ねました。今回の旅も「秩父鉄道の旅」を兼ねています。鉄道についてはそちらをご覧ください。

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11月15日の関東地方は前日と打って変わって快晴。荒川のむこうに紅葉した秩父の山々が広がります。

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贄川宿の入口。地元だけのささやかな催しとの予想を裏切り、かなりの人出で賑わっています。

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旧本陣。宿場内の家はほとんどが養蚕農家を兼ね、階上に蚕部屋を設けているところが多いですが、ここは2階も宿のようです。

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裏に回ると真っ赤に紅葉したカエデの木が。荒川のむこうには遥かに武甲山が望めます。

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宿場のはずれから荒川方面に下っていくと、推定樹齢400年以上の大ケヤキがそびえる旧贄川村村社、八幡神社があります。宝暦9年にこの村のむじなの穴から出土したという男衾の三嶋神社の鰐口(わにくち)が特別展示されていました。むじなの穴は今も健在だそうです。

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八幡神社の前の八幡坂(旧秩父往還)。

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直下に荒川が流れており、道はこの渡船場で対岸に渡り、白久方面に続いています。しかし今は浚渫された砂利が積まれ、かつての面影はありません。

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八幡橋を渡り、白久方面に少し行った上郷地区にある阿弥陀寺。無住だそうですが、手入れは行き届いており、しっかりと地域社会に守られている感じがしました。

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紅葉を背景に白久駅近くを走るSL、パレオエクスプレス。

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蒸気を吹き出しながら三峰口駅を出発し、熊谷へ向かうパレオエクスプレス。

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2009年11月 9日 (月)

武蔵野の開拓時代をなつかしむ

東京の中心部から放射状に延びる鉄道路線の沿線からから少し離れて歩くと、今でも武蔵野の面影を随所に見ることができます。

武蔵野の農地開拓というのは、昭和以降の住宅開発のような江戸の市域の拡大という形で行われたのではなく、甲州街道から北へ向かって南北方向に行われたようです。そのため、明治時代頃までは交通も東西より南北軸を優先してインフラが整えられてきました。

江戸時代初めに引かれた玉川上水は、遠く奥多摩の山中に源を発する多摩川の水を江戸の上水として使用しようという意図のもとに造られたものですが、飲用水の確保という需要だけでなく、流域の開拓にも大きく貢献しました。灌漑用水としての利用が設計段階から想定されていたことは、いずれも周辺の土地の中で最も高い部分を選んで流路の選定がなされていることからもわかります。これは周辺に分水することを初めから想定していたためだと言われています(宮本常一『私の日本地図10、武蔵野・青梅』未来社)。上水の完成後、多数の分水が行われましたが、これら分水の流路が南北方向中心であったのは当然のことで、そのため開拓も主に広い平野の広がっていた北方向に向かって進みました。いつくかの分水の中でも野火止用水は西武拝島線東大和市駅近くから埼玉県の新座、朝霞方面に向かって引かれ、流域では広大な新田が開発されました。

明治になってこの広い武蔵野を鉄道で結ぼうという計画が持ち上がった時、その基本線が南北軸に沿って据えられたのはこうした理由によるものです。現在の西武鉄道の中で最も長い歴史を誇る国分寺線は、明治27年から28年にかけて開通した川越鉄道が前身で、もともと国分寺と川越を結ぶ路線でした。その沿線風景をいくつか写真で紹介します。

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玉川上水(西武国分寺線鷹の台駅から上流を望む)。

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上水の上を国分寺線の電車が通過する。

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鷹の台から下流方面を望む。上水の掘削面は垂直に近く、しかもかなり深く掘り下げられています。

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一気に北上して入曽駅近辺の雑木林。

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今も信仰は生きています。

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萌芽更新(コピシング)を施された木々が並んでいます。これほど手入れの行きとどいた雑木林は、今ではなかなか見られるものではありません。

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狭山市北中地区を貫通する畑の中の道。刈り込まれた茶の木の垣が延々と続き、彼方には回廊のように残された雑木林が続いています。

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2009年11月 4日 (水)

昭和の記憶の残る町

コンニャクとネギで有名な群馬県の下仁田に行ってきました。3年前にも1度訪れているのですが、その時は時間がなく、町の様子を見ることができませんでした。今回は偶然にも諏訪神社の秋の例大祭が行われており、7基もあるという山車のうち1つが引き回されているところを見ることができました。今回の旅は、またまた上信鉄道紀行の一環。2人分あわせて考えると、実に収穫の多い1日でした(旅行実施日は10月11日)。

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上信電鉄・下仁田駅前を行く諏訪大社秋季例大祭の山車。

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中央通りに残るビリヤード場。昭和の香りが濃厚。

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その向かいのパチンコ屋さん。いい感じです。

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上信電鉄・馬庭駅駅舎。上信電鉄の駅舎はどの駅もこんな佇まいを残すところばかりです。

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馬庭と吉井のあいだの鏑川沿いに建つ多胡碑。奈良時代にこの上毛地方に新しく多胡郡という郡が建てられたことを記念して建てられた石碑で、すばらしい書体といくつかの謎を残した文章が刻まれていることで有名です。

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高崎駅構内で老いた体を休めるデキ1+デキ3。

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